教養としての英語?

 

 まさかいまさら一般教養として英語が必要だ、ということで英語の授業が行われるわけではあるまい。教養課程(今はこういう呼び方をしているのかどうか知らないが)の英語などと言うと、どうも誤解が生じそうである。しかしながら、週に二コマしかない教養課程の英語は、教養の英語と受け取られても仕方のない中途半端な存在になってはいないだろうか。「実用準備過程」の英語と明確に性格づけをすべきではないか。これに対して実用偏重・実用主義といった批判をするとしたら、それは目的を忘れた本末転倒の議論と思われる。 今でも思い出すが、私が大学に入って最初の英語の授業は多田幸蔵という受験英語指導で有名な教授の授業であった。ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』をテキストに、少しずつ読んでいくものであった。テキストがモームヘミングウェイなど高校時代に読んだものから少しは難しくなったかもしれないが、高校の、あるいは受験英語のほとんどそのままの延長の英語授業には少なからずショックを受けた。それが原因で、まともに英語をしな くなったわけでは決してない。使える英語をめざす、などという立派な志をまったく持ち合わせていなかったのがまともに勉強をしなかった根本理由である。いずれにしてもその結果、卒業時には四合目まで転落することになったわけである。言い訳をするつもりはさらさらない。しかしそれにしても、こんな高校の延長英語を大学でやっているのでは、間題ではないだろうか。先生個人のことをどうこう言いたいのではない。大体いずれもこんなものだったと思うし、今もそうは変わっていないように思われる。

 

 大学の英語は、やはり使うための英語、すなわち運用の英語であるべきであると思う。教材が、現代のものを多彩に取り入れたものになろうと、それをしこしこやっていたのでは、本質的には何も変わっていないのではないか。たくさんの原書を読み、レポートを英文で書き、ということをやらないと実際に使えるものになるとは思えないのである。

文科省が英語を壊す』茂木弘道著より