どうして英語のテキストを専門課程で使わないのか

 

 教養課程の英語が前記のように問題だとして、では実際に専門課程では英語を使っているのか、というとどうもそうではないようである。

 

 私の経験で言うと、原書講読というものがわずかにあったが、普通の専門教科で英文の原書をテキストに使うということはほとんどなかった。これは特殊な例ではないようである。精神科医の和田秀樹氏も『「英語脳」のつくり方』(中公新書ラクレ)で同じようなことを言っているからである。

 

 「かつてわれわれが受験で苦労して覚えた英語は、その後の大学教育でどのくらい役立ったろう。あれは受験で強要されていながら、大学では英語のテキストすらほとんど使わなかったではないか」

 

 「本当は外国のビジネス‘スクールで使っているようなテキストを持ちこんでも、即座に使えるはずだ。それなのに、使わない。要するに大学の先生方の手抜きがあるから、日本の大卒の人間があまり使えない。そして外国のビジネスースクールや大学を出た人間の方が使えるという構造になっている」

 

 「例えば二〇〇二年度のノーベル経済学賞受賞者の一人に、プリンストン大学のダニェルーカーネマンという人がいる。認知心理学者であり、心理学的研究を経済学に応用した業績が認められたのである。彼の著作は日本ではまだ訳されていない。私はそれを読みたい、翻訳したいと思いながら多忙でまだ果たしていないのだが、世界中の脚光を浴びているその上うな本を『ダイレク

 

 これは少々誇張であり、もう少しマシな英語教育を行っているところもたくさんあるであろう。あるいは、手抜きというよりは、最近の学生はそんな授業をやれるようなレベルではないので英文原書など使っていられないということもあるかもしれない。いずれにしても、大半の現状がこのようなものであることも否定しようがないようである。もっとも、英文テキストを必要に応じてどんどん使っているようなら、入学時の英語力がピークなどという珍現象が起こるはずもないだろう。

 

 こうした現状を憂えて、授業を原則として英語で行うべし、といった極論を唱える人もいる。しかし、現状がひどいからと言って明治時代に昃る必要はない。日本語で高級学間が充分にできるということは実にありがたいことであって、これを可能にした先人に感謝すべきではあっても、これを否定するのは暴論というものである。必要に応じて最新の海外の研究動向を直接英文で読み、また場合によってはこちらの意見、状況を発信することが必要になったら、英語をフルに使ってそれを行えばよいだけである。日本語で学び、研究できる効率の良き、日本の現実との接点等々を考えても、日本語をこそべIスとすべきことは自明のことである。

 

 言うまでもないことであるが、外国語を専門とする大学で原則すべて外国語で授業を行う、というのは大変結構な話である。第三章で書いたように、発信力のあるバイリンガルに近い英語力を持つ人間を日本は切に必要としている。こうした外国語専門の大学は、全人口の一%、二二〇万人のバイリンガル国際人をぜひ養成してもらいたいものである。しかし、同じことを一般大学に求めるのはお門違いである。

文科省が英語を壊す』茂木弘道著より