スウェーデンの無過失補償制度

 日本やアメリカでは、医療の結果に対し、患者側か不満を持ったときは、裁判に訴える。裁判で、患者側か医療側の過誤を立証し、法廷で認められると、医療側に対し賠償金の支払いが命じられる。一方、スウェーデンニュージーランドでは医療事故をこのような方法で処理していない。これらの国の無過失補償制度では、医師の過失を証明することなしに、補償という形で被害者を救済している。

 アメリカでは、医療裁判の欠点として、被害者が必ずしも公平に救済されていないこと、賠償金に占める経費の割合が大きく、患者に渡される金額が少ないことなどが指摘されてきた。前出のエリック・A・フェルドマンの「司法制度改革と医療過誤訴訟 正義・政策・鑑定人制度」(『法律時報』七六巻二号)によれば、「アメリカにおける証拠は、医療過誤の犠牲者のうちごく少数だけが訴訟を提起し、さらにその一部だけが補償を受け取り、最も寛大な補償を受け取るものは、多くの場合、医療過誤の被害者ではないことを示している」という。二〇〇一年には、ワイオミング州で医師一一人に一人、ニューヨークでは一七人に一人が訴えられている。日本の一〇〇倍から二〇〇倍の頻度である。訴訟にならないものを含めると、紛争は日常といってよい。訴訟は診療行為にも影響を与え、医師はディフェンシブーメディシンとよばれる訴訟に備えた診療行動をとるようになった。

 あらゆることに言い訳を用意するために、本来不要な検査や手技を行い、これが患者の健康に悪影響を及ぼし、医療費を上昇させる。これは、「医療水準」の小見出し部分で引用した森山満弁護士の勧める医療行為と同じであり、日本の問題でもある。

 アメリカでは、訴訟に備えた保険料が高額になって医師の支払い能力を超え、州によっては特定診療科の医師が激減するようなことも起きている。このように医療訴訟が問題になっているアメリカでは、スウェーデンの無過失補償制度に対する関心が大きく、スウェーデンの制度を紹介する論文が多数書かれている。

 日本でも最近スウェーデンの無過失補償制度に対する関心が高まっているが、二〇〇五年五月時点では岡井崇氏の「周産期医療と医事訴訟 No-Fault Compensationのメリットーデメリット」(『日本医師会雑誌』 一三二巻六九五頁)がある程度で、日本語の論文はほとんどなかった。

 私には直接スウェーデンの文献を読む語学力がない。アメリカにスウェーデンの制度を紹介するために書かれた二つの論文を読んで以下の記述をまとめた。

 大半の情報を得だのは、一九九四年のジャーナル・オブ・リーガル・メディシン誌一五巻一九九頁-二四七頁に掲載されたパトリシア・M・ダンソンの論文「スウェーデン患者補償制度 アメリカのための教訓」である。この論文はかなり長いもので、その分、スウェーデンの制度が詳しく解説されていた。スウェーデンの状況と共にアメリカの状況も透けて見える。日本とアメリカでは、訴訟の動機が異なる。日本では恨みと応報であるが、アメリカではほとんどが金銭である。アメリカへの導入の目的も、紛争解決のための金銭が節約できることである。この論文でも金銭に関する議論が大部分を占めている。

 一九九四年の論文であり、その後の医療と社会の変化からみると、かなり古い。とくに、医療のリスク管理については、現在の考え方と大きく異なる。ダンソンは必ずしも、無過失補償制度に諸手をあげて賛成という訳ではない。彼女は、無過失補償制度の下では、医療従事者が事故を起こしても経済的に不利な立場に追い込まれない、したがって、事故を防止するためのインセンティブが形成されず、医療従事者が医療の質を高める努力をしなくなる、と懸念していた。これは、一九九九年以前のアメリカの一般的考え方であった。

 医療の安全対策の考え方が大きく変わったことを象徴するのが、『人は誰でも間違える』の出版である。この本のアメリカでの出版が一九九九年なので一九九四年のダンソン論文は一時代前の論文ということになる。『人は誰でも間違える』はアメリカの病院で、避け得た有害事象が数多く発生していることを示した。人間は間違えるということを前提に、誤りが傷害につながらないようなシステムを構築すること、また、エラーを報告させるようにして、それを分析することで安全を高めようとする立場を示しか。

 二〇〇一年の『アメリカ医師会雑誌』二八六号第二巻に掲載されたスタダートとブレナンの論文「医療傷害に対する無過失補償 エラー防止に向けて」では、無過失補償は医療の安全を向上させるのに有用であるとした。医療過誤の防止と効率的な補償をめざす最適なシステムが持つべき五つの条件を述べている。

 第一の条件は医療提供者にエラーを自ら報告することを鼓舞することである。報告で得られたデータは、医療による傷害の原因となる構造上の欠陥や、事故に結びつく医療提供者の行動の特性の研究の基礎資料とする。

 第二は医療の質を向上させようとする強い信号を医療提供者に送ることである。通常、医療提供者は、医療倫理の課題として、医療の質を高めようとするが、それだけでは不十分で、医療事故を減らすと経済的利益が得られるようにすべきである。

 第三に、稀ではあるが、医師が、能力不足だったり、危険な医療を平気で行ったり、あるいは、悪意を持って医療を行い、それによって、患者が傷害を受けることがある。いくら無過失補償とはいえ、このような医師は、直接、あるいは、別の懲罰機構を通じて、処分すべきである。

 第四に、補償制度は、医療提供者が率直で正直であることを高める方向に機能する必要がある。理想的には、医療が原因で傷害が発生したこと、それが避けられた傷害であることを医師が患者に告げられるようにすることである。

 第五の条件としては、補償を、必要に応じて、素早く、公平に、確実に、予測可能な状況で実施することである。

 無過失補償制度は、責任の主体を各医療機関にすることによって(医療事故が多いと病院の納める保険料を高くする経験料率制度を採用することで)上記五条件のすべてを満たすことができる。

 スタダートとブレナンの論文も、よく読んでみると、無過失補償制度導入の主たる目的を、安全というより、紛争処理費用の軽減においている。

 私は、日本に無過失補償制度を導入したいと願っているが、費用は今の民事裁判による賠償よりはるかにかかることになると予想する。それでもなぜ無過失補償制度を導入したいか。私の考える目的は、紛争処理費用の軽減ではなく、社会的共通資本としての医療制度の保全である。患者と医療従事者の相互不信を解消しなければならない。解消できなければ行き着く先はイギリスの泥沼である。三十数兆円の多額の医療費が無駄になることになる。それ以上に、日本人が不幸になる。将来の国民が病気になったときに、適切な医療サービスが受けられるようにしておくために、紛争解決に費用をかけるべきだと思っている。費用をかけて、すべての医療過誤被害者を公平に救済しなければならない。

 無過失補償制度はスウェーデンで実際にうまく運用されているらしい。その意味は、公平に素早く補償されていること、費用が適切な範囲にあること、かけられた費用のうち、経費が少なく、患者側にわたる金額が多いこと、患者と医療従事者の双方に大きな不満がないことである。ただし、名前が誤解を招いている。実際には無過失補償ではない。正確には「非対立性過失証明不要型補償」とでも言うべき補償制度である。実際にはそれなりの過失があるものだけが補償される。

 補償を受けられる傷害の定義は、まず、医療の直接的結果として生じた傷害であり、患者の疾患に関連した傷害は除外される。この二つの条件の意味は、傷害が、五〇パーセント以上の蓋然性をもって医療を原因とすることと解釈されている。分かりやすく表現すれば、医療に起因する「避けられた傷害」である。誰が悪かったのかという責任追及は、補償に関連しては議論されない。実際に補償を受けられる被害は、民事裁判で賠償が得られる被害とほぼ重なる。傷害の種類は五種類定義されている。

 第一は、治療行為による傷害である。これには二つの場合がある。ひとつは正当でない治療による傷害である。専門分野で経験を積んだ医師がとったであろう行動が基準になる。二つ目は、容認された方法を用いた医療上正当な理由のある治療の、避けられたはずの合併症である。正当な理由のある治療の避けられない合併症は、後から考えて別の方法を用いていれば避けられたとしても補償されない。例えば、正常出産で児が傷害を受けた場合、正常出産が適切な選択だったとすれば、帝王切開でその傷害が避けられたとしても補償されない。

 第二は、普通の医療に伴う不当に重篤な傷害である。小さな手術で、大きな合併症が起きたときなどがこのカテゴリーに入る。基準によって意味が大きく異なるが、私の読んだ文献には明確な基準が記載されていなかった。また、具体例も記載されていなかった。

 第三は、診断ミスによる傷害である。経験のある専門家が基準になる。診断の難しい症例は、正しく診断できなかったとしても、補償の対象とならない。また、誤診によって追加された被害が補償の対象となる。誤診があっても、そもそも治療不可能な癌だったとすれば、誤診によって加わった損失はわずかとみなされる。

 第四は、患者自身に責任のない事故である。高齢者の転倒・転落事故は補償されるような印象を受けるが、実情は異なる。医療従事者や病院の器具に問題があり、そのために事故が発生して被害を受けた場合にのみ補償される。患者の病気が原因の事故、すなわち、精神障害、高齢、てんかんなどによる転倒・転落事故は補償されない。通常の歩行能力がある患者が転倒して傷害を受けても、補償されない。転倒・転落事故はスウェーデンの制度がはじまった当初は補償されていた。ところが、最初の三年間の補償の二三パーセントが転倒・転落事故だった。これに費用をかけるのは適切でないと判断され、以後、補償するための条件が厳しくされた。

 第五は、医療行為によってもたらされた感染である。しかし、腸、気管、口腔など、本来菌が存在する部位や病的状況にある組織の感染は補償されない。癌手術後の感染も補償されない。医療用の各種カテーテルが、長期間挿入されていたときの感染も補償されない。

 さらに除外基準が設けられている。上記五条件に当てはまっても、以下の四種類の傷害は補償されない。①軽度の傷害、②重篤な状態に対するリスクを伴う医療による傷害、③身体障害の結果生じた以外の精神的傷害、④政策による医療サービスへの資金不足の結果生じた傷害

 スウェーデンの無過失補償制度では、予算の制約が傷害の原因になっている場合には補償されない。これは大人の判断というべきであろう。日本の医師や看護師が持っている強い不満の一つは、現在の人手のかけ方では到底達成できないような苛酷な要求を民事裁判、刑事裁判が医療従事者に求めることである。

 PCI(Patient Compensation Insurance)は患者の訴えを受けて審査し、補償する機構である。PCIは保険協会と医療提供の責任者である二六の州評議会との契約で成立し、これら二六の州評議会の拠出金で運営されている。したがって、補償金は医療費の中に組み込まれていると考えるべきである。この制度は訴訟を避けるために設けられた。ところが、患者はこの契約に参加していない。このため、患者には訴訟する権利が留保されている。しかし、訴訟を阻害する状況が多々あり、実際に訴訟にいたることはほとんどない。まず、スウェーデンでは訴訟に勝っても得られる賠償金はアメリカほど大きくない。またPCIからすでに支払われた補償金があるとすれば、それは賠償金から差し引かれる。休業補償等他の社会保険からすでに給付されているとすれば、この金額も差し引かれる。アメリカのように患者を支持する傾向の強い陪審員制度は使われず、裁判官が判決を下す。弁護士費用は時間単位で決められており、成功報酬は禁止されている。このため、弁護士にとって魅力的な仕事ではない。PCIでは被害が過誤による可能性が五〇パーセントあれば補償されるが、訴訟になると、勝訴するには七五-八〇パーセントの因果関係の立証が必要であるとされており、立証が難しい。また、立証するためには専門家の証言が必要であるが、証言を得るのが極めて難しい。アメリカにPCIを持ち込もうとしても、アメリカの医療訴訟の制度がそのままだとPCIは機能しないと予想されている。

 スウェーデンのPCIでは補償すべき条件をあらかじめ決めているが、これを法律で決めず、フレキシブルに変更している。これはPCIが法律ではなく保険協会と二六の州評議会との契約で成立しているからである。どういう傷害に対し、どの程度の金額を補償するのかは、全体の医療費の大きさ、その中の補償金の占める割合、傷害の性質を勘案して決める。医療費を適正に保つためには無制限に補償することはできない。

 あらかじめ、条件を厳密に決めておき、補償金額を中央化して単一の機関で決めると、公平性が保てる。日本のように医療に関する知識に乏しい裁判官が、個々の事例を明確な基準なしに判断すると、判断の振医療の崩壊を防ぐためにれ幅が大きくなり、不公平になる。

 スウェーデンでは患者が不満を持ったときに、患者あるいはその家族が口頭でPCIに申し込むだけで審査がはじまる。医療従事者が被告になるわけではない。「避けられた傷害」かどうかが議論される。訴訟と異なり、早く補償される。訴訟費用もかからない。医療従事者の過失を証明する必要もない。広く補償されるが、補償額は安い。PCIの最初の決定に不満があるときは一年間はクレーム審査委員会に異議を申し立てることができる。これは「アピール」とよばれる手続きであるが、あまり成功しないのでめったに行われることはない。「アピール」の上にも、「仲裁」という異議申し立ての制度が用意されている。「仲裁」では以前の判断の内容が争われるのではなく、手続きが正当だったかどうかだけが議論の対象となる。

 スウェーデンのPCIが日本に導入可能ならばそれでよいと思う。しかし、PCIはそのままでは導入できない。PCIは裁判外の補償制度である。現在の医療裁判をそのままにしてPCIを導入すると、かえって、PCIの裁定の結果から、裁判をしても勝てるとの見通しがつき、かつ、裁判の方がはるかに高い賠償金が得られるとなると、先に述べたように、医療裁判が大幅に増える可能性がある。PCIと裁判制度の喘み合わせが重要になる。とくに、賠償金の決め方を統一する必要がある。スウェーデンで保険協会と州評議会との契約で決めた補償内容がそのまま通用するのは、裁判制度を利用する際の障壁が日本より大きいからである。

 以上のように考えると、第一審を専門の審判所に任せることも考慮に値する。となると、医療事故調査機構によるしっかりした調査と判断が重要になる。医療裁判でもっとも問題になるのは何か起きたかの認定とその意義の判断だからである。

 あるいはいっそのこと、調査機構の作成した報告書を患者が受け入れるかどうかの決定を、民事の第一審に代わる審判としてもよいかもしれない。報告書に基づいて、支払い機関が中央で支払い額を決めて支払うようにすれば、経費が少なくてすむ。補償金の高騰が防げる。また、公平性も保ちやすい。この場合、報告書の承認と補償金額の決定のそれぞれで異議申し立てを審査する制度が必要になる。

 『医療の崩壊』より