医療分野へのヒューマンファクター工学の導入

 医療に大きなリスクが伴うことを社会に認知させたのが、一九九九年にアメリカで出版された米国医療の質委員会/医学研究所による『人は誰でも間違える』である。これは最も有名な医療のリスク管理についての本の一つである。内容に深い洞察やきらめきがあるわけではないが、ネーミングとタイミングで医療におけるリスク管理の概念を変えた本になった。本の題として下記章句の前半がとられた。

 かつて、世界中で、医療過誤はあってはならないこととされていた。医療過誤は罪であり、処罰すべき対象だった。忌み嫌うべきものであり、ことさら明らかにすべきものではなかった。すべてを明らかにして正面から取り組むことを可能にするシステムがなかった。この本は医療の世界に事故が数多く発生していることを明らかにした。本の題が、事故がおきることは避けられない、事故そのものを冷静に分析して、医療の安全をはかることが必要であると雄弁に提案した。

 リスク管理について、医療の分野は遅れていた。原子力発電、航空システム、道路交通システム等は社会の安全に大きく関わっている。こうしたシステムは人間が操作している。人間のエラーが大きな事故につながる。安全を向上させるために、心理学、工学の知見と手法を使って人間のエラーの性質が研究され るようになった。これがヒューマンファクターエ学とよばれるものである。

 人間は疲れる。環境の影響を受けやすい。信頼性は低い。ヒューマンファクターエ学はヒューマンエラーを環境を含めて理解する。間違えようとしても間違えられないようにすることを目指す。ヒューマンファクターエ学の常識では、ヒューマンエラーは原因ではなく、誘発された結果である。注意の喚起や罰則の強化ではエラーは防げない。

 大きい会社には、リスクを担当する部署があり、専門家がいる。さらに、高度な知識と経験を持ったリスクマネジメントを専門とする会社もあり、問題を抱える会社からの相談を受けて調査したり、安全管理のシステムを構築したりしている。二〇〇〇年以後、アメリカから輸入される形で、日本の病院でも徐々にリスクマネジメントの考え方が導入されるようになった。

 リスクマネジメントの最大の目的は組織事故を未然に防ぐことである。組織事故は複合的に起こるとされている。原因を潰してエラーの頻度を下げる。エラーの連鎖を断ち切るようにシステムを作る。原子力発電所はよほどエラーが重ならないと事故が発生しないように設計されている。さらに、エラーが起こっても被害が最小になるように工夫されている。しかし、いかに努力しても事故は完全にはなくせない。事故が起きることを想定して、発生したあと適切に処理することもリスクマネジメントである。