気腹解除後ショック

 麻酔科医、泌尿器科医が危機感を持つのが遅れたのは、比較的血圧が保たれていたからだと思われる。これが、開腹した直後に危機的状況になった。なぜこうなったか、「報告書」ではほとんど考察されていない。青戸病院の事故調査委員会の二〇〇三年二月一日付の調査報告書では、「これがどのようなメカニズムで起きたのか、今回の調査では明らかにならなかったが、気腹(腹腔鏡手術時に腹腔内に送気し、内視鏡で腹腔内が良く見えるようにすること)が解除されたことにより、腹腔内の圧力が低下し、微細な血管からの出血が増加した可能性や、腹腔内の圧力の急激な低下により循環動態が影響された可能性が考えられる」としている。先にも書いたが開腹時には出血はほとんどなかったと思われる。

 循環動態が急速に悪化し、血色素量が急に低下したことについて、「気腹解除後ショック」とでも命名すべき状況があったのではないかと推測している。これについては複数の信頼できる外科医と別々に議論したが、全員、私の推測に賛成した。

 腹腔鏡手術では、視野を確保するために、腹腔内に炭酸ガスを注入し、九ないし一mmHgの気圧がかかった状態にする。静脈内圧は気腹圧より低いので、腹腔内の静脈は圧迫され、押しつぶされたようになり、血管内の容量が減少する。出血で循環血液量(血液の総量)が減少しても、腹腔内の静脈に本来たまっていたはずの血液が動脈系にまわるために、血圧が低下しない。また、出血の程度に比べて、血色素量の低下が軽度になる。麻酔科医は出血の程度を実際より少ないと判断してしまう。開腹後、腹腔内にかかっていた圧力が解除される。このため、静脈が開き、ここに血液が流れ込む。動脈系に流れる血液が足りなくなり、血圧が低下する。また、体の他の部分から液体が血管内に動員されたり、輸液によって血液が薄まり、急速に血色素量が減少する。

 「これがどのようなメカニズムで起きたのか、今回の調査では明らかにならなかった」と記載されていたが、今回の事故だけを調査しても原因を確定できない。仮説を立て、それを検証する必要がある。私の推測を検証するのに、二つの方法が考えられる。一つは、長時間気腹した状態で、かなりの出血があった場合の循環血液量を、実際の患者で測定することである。準備さえしておけば、患者に負担をかけることなく比較的簡単に測定できる。迅速に結果をだすことができれば、輸血の目安になるので患者の安全に役立つ。

 もう一つは、こうした事故が過去に起こっていないか、調査することである。長時間の腹腔鏡手術の後に開腹し、直後にショックに陥った症例がなかったか調査する必要があろう。慈恵医大本院で実施された第一例目の腹腔鏡下前立腺全摘除術は本事件と同様、出血があり、開腹に至っている。少なくとも、この症例の開腹後の血圧の変化、輸血の推移、血色素量の変化は検討すべきである。

 「気腹解除後ショック」は重要な教訓である。腹腔鏡手術で血色素量が減少してきたときには、通常の手術より、早めに多めの輸血をする必要がある。あるいは、開腹時に急速な輸血が必要になる。麻酔科医と腹腔鏡手術に携わる医師に広く警告する必要があった。刑事事件になったことで教訓が埋もれた。

医療の崩壊より