外交官と英文法

 

 英文法は、英語を学んでいるときに役立つだけではなく、国際外交の第一線の場においても重要な議論の焦点になることもある。現在、在バンクーバー総領事の多賀敏行氏は、『ベストーエッセイ集94年版』(日本エッセイストクラブ編、文藝春秋)の中に、当時、国内広報課長だった経験を踏まえて「外交官と英文法」と題する興味深いエッセイを載せている。  「この種の話で一番有名なのは、第三次中東戦争(一九六七年)の時の安保理決議をめぐる各国のしのぎを削る外交交渉である。

 

  『最近の紛争において占領された地域からのイスラエル軍の撤退』という文章の『地域』という言葉を"territoriesとするか"the territoriesとするかの一点をめぐってソ連アラブ諸国側と米・英側との回でもめにもめたのだ。{冨が挿入されればあらゆる占領地からの例外なしの完全撤退を意味するし、檸入されない場合は撤兵を選択的に行い得ることになり、双方の間には現実的な利害の違いがあった。

 

  結局はソ連・アラブ側が譲歩し、→ぼという冠詞は入らず、したがってterritoriesの具

 

 体的定義が明確さを欠くこととなった。

 

  国連の会議場で大のおとなの外交官が『おまえよりおれのほうがこんなにたくさん知っているんだぞ』と言わんばかりに英文法の知識を抜露しては自慢し合うのである」少々児戯にも似たと言いたくなるような英文法の知識自慢をし合っているさまははは笑ましい限りである。それだけ大事な知識であるということである。

 

 以下、英語教育に対しての見解が述べられている。第一線で英語を使って活躍している方の言として非常に説得力がある。受験勉強さまさま、というのがいつわらざる感想だということがよくわかる。

 

 「日本の中学、高校では退屈だなあと思って聞いていた英文法の授業だったが、その折りに覚えた知識がじわじわと私の頭の中によみがえってくる。日本の新聞や雑誌でしばしば実際の会話では役に立たず、むしろ有害でさえあるとしてさげすまれているあの英文法の知識が、偶然ここで役立つのである。

 

 たとえば会議で『途中で長い修飾句が入ってしまったのでわかりにくくなっているが、この関係代名詞の先行詞はこれこれという単数形の名詞なんだから、後に続く動詞の語尾には’を付けなければいけない』などと発言すると、結構他国の外交官、それも英語を母国語とする国の外交官からも『こいつはなかなか英語ができる』と一目置かれることがあるのだ。そうなると受験勉強さまさまということになる。

 

 国際化の進む中、我が国では中学、高校で習う英文法は日本人の英語がうまくない原因とされてしまっているが、これについては学校教育の英文法に責任がある訳では決してない。間題は英文法の知識に加えて必要とされる異文化間のコミュニケーションのコツ、あるいはツボとも言うべき知識の習得がまだ十分に行われていないことにある。

 

 ちなみに、多賀氏は、筑摩告房より『ワンランクアップの英文法』という本も出版している。残念ながら多賀氏の思いも通じず、この本はあまり関心を呼ばなかったとのことである。

 

 中学・高校、さらに受験英語を足しても、言ってみれば基本英語力がつくだけだ。これに「加えて」やらなければならないことがいまだたくさんある。概観図として、受験勉強を目一杯やった大学生の英語能力を「使える英語」の七合目としたが、実際にここまできている大学生はそう多くはない、というのが実際であろう。とくに、最近の大学生の英語力低下という状況からすると、五~六合目くらいがよいところかもしれない。

 

 受験英語は、三合目レベルの普通高校英語を五~七合目まで大幅に引き上げるという、非常に価値の高い役割を果たしている。しかし、本当の英語力は実はそこからなのである。なにしろ、五~七合目に過ぎないのだから。

文科省が英語を壊す』茂木弘道著より