カタカナ語は英語力とは無関係

 

 カタカナ語の氾濫と英会話幻想は、もっとも素朴な「英語神さま語的信仰」の例である。先に見たように必要のないカタカナ語、断片英語を歌の中で多用するのは、神さま語である英語を呪文のように唱えているのと同じである。何しろこれによって英語力、コミュニケーションカが高まることがほとんど期待できないからである。しかも錯覚の錯覚たるゆえんは、本人は英語という「神さま」の世界に少しでも没入し、陶酔し、何か高級な境地に入ったかのように思ったり、コミュニケーションカが高まることを本気で期待しているらしいということである。しかしながらこんなものは英語力の足しにはまったくならない。英語はわれわれにとって手段であり、武器であって、実際の役に立ってテンポである。英語に憧れ、英語もどきの呪文をいくら唱えてみても、神さま語ではないのだから何の「ご利益」もないのだ。

 

 若者音楽に限らず、やたらカタカナ語と断片英語を連発して恰好いいつもりになってるらしい学者・ビジネスマンなども数知れずいるが、この素朴な信仰を馬鹿にできる日本人は案外少ないのではないだろうか。英会話信仰論者もこのバリエーションとみることもできる。なぜかというと、会話! 会話! と言って、挨拶とちょっとしたやり取りのパターンを覚えることをさも重要なことのように錯覚しているからである。最近の中学校の英語教料書に登場する「ハンバーガー英語」などはその好例である。例の「必修語数一〇〇語」という新・・・

 

文科省が英語を壊す:茂木弘道著より