観光英語

 

 

 挨拶や対応等の平易な会話が活用できそうな場面として次に浮かぶのは、海外に出かけた時のことである。

 

 海外へ行った時に、買い物をしたり、食事をしたり、町をぶらつき、ちょっと道を尋ねたり、あるいは軽い会話を交わしたり、といったことができたらと願う人は多いであろう。今や日本人の海外旅行者は年間1500万人を超えるほどポピュラーになっている。海外観光旅行の際に不自由をしない英語、少しでも楽しめる英語を求めている人が多いのは自然なことだ。英語を母国語にしていない国でも今では英語がかなり通じそうだ、ということになると一層そう考えたくなろう。

 

 しかし、では全国民がそのための会話ができるようになるべきなのか、というとこれも好みの間題であることは明らかである。しかもかなり贅沢な好みである。なかには、英語もろくにしゃべれないから日本人は海外へ行って馬鹿にされ恥をかくんだ、と英語絶対必要を主張する人もいる。あるパーティーでこういう意見を強硬に唱える人に出会ったことがある。英語は趣味の間題ではなく、日本人としての義務のひとつであるかのような論である。

 

 でもこれも、馬鹿にする現地の人のほうがおかしいのであって、英語に苦労している観光客に非があろうはずはない。そういう馬鹿を言う現地人がそうそういるとは思わないが、もしいるとしたらその非常識さをたしなめるべきである。もっとも、この主張をしている人に、実際に現地人から馬鹿にされた体験があるのか聞いてみたところ、それはないと言う。要するに勝手にそう思い込んでいるに過ぎなかったのである。英語神さま語的信仰から出てきた一種の英語強迫観念とも言うべきものであった。今の文部科学省の方針は、こういう迷信信仰者を作り出しやすい、という点においてもはなはだ間題である。迷信はなるべくなくすべきものではあっても、学校で率先して教えるべきものではない。

 

 このように考えてくると、挨拶や対応等の平易な英会話力というものは、多くの人が漠然と考えて期待しているほどの効能と必要性のあるものではない、ということがわかる。すなわち、国民全体に求められる能力ではなく、むしろ好み、趣味の問題である。文部料学省は、・・・

 

文科省が英語を壊す:茂木弘道著より