なぜ毎日やらないのか

 

 語学の学習の鉄則に「少しずつでもいいから毎日取り組む」という原則がある。語学を勉強した人なら誰でも覚えのあることだろう。一九四七年、戦後はじめての学習指導要領にも「学習指導法」として次のように書かれている。

 

 「英語の学習においては一時に多くを学ぶよりも少しずつ規則正しく学ぶほうが効果がある。それで、毎日一時間、一週六時間が英語を学ぶ理想的な時間数であり、一週四時間以下では効果がきわめて減る」

 

 ここでは、学校の授業を想定しているので、一日一時間、となっているが、これは場合によっては二時間となってもよく、要するに毎日の規則的な学習がもっとも効果が高い、ということである。

 

 ところで、現在の中学校の英語の授業時間はどうかというと、必修で週三時間、選択を最大限入れても、週四時間である。一時期よりも時間が減少しているのだ。小学校で週二時間足らずの中途半端なお遊び英語を導入する反面、中学では、英語!の掛け声とは正反対のことが行われているのである。一週四時間以下では効果が「きわめて減る」と指摘されているのに四時間以下を現実には実施しているのだ。週二時間足らずという小学校英語にいたっては、この「四時間」原則からしても、いかに不合理きわまりない愚行であるか、よくわかるであろう。

 

 「ゆとり教育」思想に基づいて、生徒の「負担を減らすために」学習内容を文法・単語も削減して、授業時間も少なくしているのが、現在行われている中学の英語教育の改革なのである。必修語数が一〇〇語になったのはすでに述べた通りである。なるほど、挨拶と対応等の平易な会話を学ぶのにはこれでもよいのかもしれない。しかし、本当にそれでよいのか。植民地の従順な奴隷なら、挨拶と対応でいいかもしれない。ご主人さまに意見を言い、不当に対して抗議をし、主張を通すための英語など必要ないからである。そんな英語はもう一度繰り返すが、グローバルールールの言葉ではなく、植民地英語である。

 

 われわれは奴隷ではない。われわれにとって使える英語とは、前章で述べたようにビジネスをけじめ、さまざまな海外の人たちとの接触の場で、言うべきことを言える英語である。さらにいえば相手を説得できる英語である。そうした英語力のための「基礎」を身につけるのが、中学英語であるべきだ、というのが私の考えである。そのためには、現状の中途半端で非効率的な週三~四時間を、まず週五時間(本当は六時間がよいが、土曜日が休みになってしまったので仕方がない)にして、毎日やるようにすることが、まともな英語教育への第一ステップである。

 

文科省が英語を壊す』茂木弘道著より