英会話はスポーツである

 

 最初から一貫して「英会話重視」という流行思想に反対してきたのは、決して会話不要論 の立場からではない。それは、これまでの説明からもお察しいただいたことと思う。会話信奉論者の「英会話幻想」という「間違った」考え方が、結局は英語力全般の低下をもたらし、O使える会話力の向ヒをかえって妨げていることをまず理解してもらいたかったのである。しからば会話はどうするのか?

 

 もうその答えの大方は述べているようなものである。発音・発声・音読の練習を繰り返して、ブローカ中枢の運動記憶を高めることがそのベースであるということである。さらに、反射的な対応のトレーニング、実際の会話実践が加わっていくが、要するに『小学校に英語は必要ない』で強調したように、英会話はスポーツなのである。

 

 わかった、知っている、ということと、会話の際にそれが囗をついて出てくるということは、極端に言えばまったく別のことである。テニスボールの打ち方を教室でじっくり教わり、十分に理解したからといって、コートに出てボールを打てるわけではないのと同じことだ。実際に何回もボールをラケットで打って、だんだんと思うように打てるようになる。体に覚え込ませなければ、うまく打つことはできない。それと同じように、口を通して体に覚え込ませなくては、会話などできるはずがないのである。

 

 高校まで結構英語をやって、大分自信を持っていた。たまたま外国人に出会って話しかけられた。言ってることが十分にわからないだけでなく、こんなことは言えそうだということも、言葉が思い出せなかったりして口に出てこない。冷や汗をかき、愕然とする。そして、学校英語とは何だったんだ、何にも役に立たないではないか、という思いに駆られるという経験をした人は多いであろう。しかし、それは錯覚というものである。あんなにテニスのことは勉強して理解したのに、コートでボールを打とうとしたら、ちっとも打てないではないかと愕然とするのと同じことで、何を阿呆言ってんの、ということである。

 

 会話は、「絶対勉強するな」とは言わないが、勉強というよりもトレーニングによって上達する類いのものである。まさしくスポーツそのものである。理論的に言えばブローカ中枢が司る能力である。

 

文科省が英語を壊す』茂木弘道著より