規範=法律としての文法

 

 

 しかし、文法という法律が支配する「英語という法治国家」で、法を無視して間題が起こらないはずがない。

 

 まず、文法を間違えることによって起こる誤解、トラブルが考えられる。

 

 たとえば、「綾子さんは高山先生の奥さんなんですよ」と言うつもりで。

 

   Ayako is a wife of Professor Takayama.

 

 と言ったとすると、少々誤解を招くことになる。というのは、綾子さんは高山先生の奥さんの一人、すなわち高山先生には綾子さんという奥さんもいる、といった意味になるからである。小さなことでこんな違いが出てくるのだから、いい加減にはできない。

 

 また、とくに文章に書いた場合、文法に合わない文章は読みにくいだけでなく、低級な感じを与え、まともな評価をしてもらえない恐れがある。そのような英語で、ビジネスメッセージや自分の考えを主張するための発信をしようとしても、馬鹿にされて相手にしてもらえないことになりかねない。

 

 言ってみれば、交通法規を知らないで運転をしているようなもので、危険きわまりないと言うべきだろう。面倒であろうがどうであろうが、守るべきものは守らなければならない。それがいやなら運転をあきらめるしかない。

 

 もっとも、英語の文法には例外的なものが多い。明治政府の初代文部大臣森有礼は、日本語を廃して英語を導入する提案をした、元祖英語公用語化論者として悪名が高い。ところが彼は同時に英語はもっと使いやすい、規則的なものにすべきであるという提案をしている。不規則動詞をなくし、スペルを発音に合わせたものにすべきだというのである。こういう提案を堂々とアメリカの学者にしたということは、さすがに並みの「英語神さま的信者」とは違う。しかし、当然のことであるが、彼の提案は間違っていると学者から否定された。言葉というものはそう勝手にいしれるものではないからである。

 

文科省が英語を壊す』茂木弘道著より